信仰を立証する

A. 御翼を読むと勇気が…

 「人生は辛いですが、御翼を読むと、勇気がわいてきます。妹や友にも読ませたいと、いつも大事に保管しています」とある購読者からお便りが来ました。「御翼」とは聖書講話の原稿で、それを書いている牧師先生は良いメッセージを語るだけでなく、良い人格を持つことを常に目標としたいと語っておられます。  信仰は、口で語るだけではなく、行いが伴わなければなりません。

B.聖書より

 こうして、主イエス・キリストを信じるようになったわたしたちに与えてくださったのと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったのなら、わたしのような者が、神がそうなさるのをどうして妨げることができたでしょうか。」使徒言行録11章17節
 ペトロは異邦人と食事を共にしたので、父祖伝来の律法を破り、民族の伝統を汚したと非難されました。異邦人とは交わらないという狭い伝統を破るために、ペトロは、知識ではなく事実をもって行動したのです。その時、異邦人であるコルネリウスの上に、初めて聖霊が降りました。イエス様に従う者の務めは、その信仰について語ることではなく、信仰を立証することです。固く、狭くなりやすい伝統的立場に新しい方向を与えるのが、経験にもとづくキリスト教の信仰なのです。

C.「“心の宝”を見つめる」―藤井美和

 

 藤井美和さんは、関西学院大学で死生学を教えています。死生学とは、死を考えた上で、どのように生きるべきかをテーマにした学問です。藤井さんの授業では、一人の健康な学生が突然がんに侵され、亡くなって行く過程を、日記をたどる形で疑似体験させられます。学生たちは、死に近づく姿を自ら思い浮かべながら、あらかじめ紙に書いた大切なものを一枚一枚破り、手放して行くのです。 諦めではなく、生きて得たものを、信頼できる者に委ねて行くことができれば、死のプロセスは人生最後の仕事として意味のあるものとなる、と藤井さんは言います。
 もともと藤井さんは、新聞社で働くキャリアウーマンでした。それが1988年5月、突然、指先の感覚がしびれ、全身が麻痺して入院します。急性多発性根神経炎(通称:ギランパレー症候群)といって、自分の血液の中のある成分が、自分の神経を殺していく原因不明の難病でした。藤井さんはクリスチャンでしたが、28年の人生の中で、人のために何かしたことがあっただろうかと考えたとき、家族にさえも何もしていないことに気づかされます。イザヤ書43:4「わたしの目にあなたは価(あたい)高く、貴く」とあるように、まるごと自分を受け止めてくれる人がいるだけで、人生の最期は違ってくると思わされました。
 そんな体験から藤井さんは、新聞社は辞め、人のために何かしたいと決意します。約半年の入院生活と、二年半のリハビリを通して、患者たちは病気が苦しいだけではなくて、家族に対する思い、これからの生活の不安、また自分がどうなっていくのか、死の苦しみといったさまざまな痛みを持っていることを知りました。しかし、日本の病院には、そういった心のケアをするスタッフはほとんどいません。奇跡的に回復した藤井さんは、30歳で関西学院大学の3年生に編入し、大学院を出た後、フルブライト留学生として米国のワシントン大学に学びました。帰国後、関西学院大学の福祉学科を開設、死生学を教えています。藤井さんは、学生たちに信仰を語るのではなく、信仰を出来事や行動をもって立証しようとしています。

D.結び

 信仰について語るのみでなく、出来事や行動をもってイエス様の愛と救いを立証しましょう。人は、神さまの霊に満たされたとき、イエス様に近づくように変えられるのです。
 御翼2010年1月号その3


  
世界で活躍したクリスチャン HOME